リストクラッチエクスプロイダーといえば、誰もが思い浮かべる使い手は、やはり開発者である秋山準でしょう。
秋山の他には、余り使い手が多い技ではありませんが、本家の秋山に負けず劣らず要所要所で、この技を使用していた選手も居ます。
それが永田裕志です。
永田は1998年の凱旋帰国以降 エクスプロイダーを使用しており、供にレスリング出身、それぞれ新日本と全日本のホープ、両者供に青いタイツだったと共通点も多い事から、何かと比較されてきた2人でした。
しかし90年代の新日本と全日本は、交わる事はまず無かったので、両者にはリング上での接点は一切なく 2001年のZERO-ONE旗揚げ戦で、タッグマッチながらも激突した事で、ようやく2人の間には接点が生まれる事となりました。
その後は互いに認めあい、タッグを組んだり技術交換をしたり、団体の垣根を越えた交流は、どんどん盛んになっていきましたが、そんな中で2001年に、ノアで行われたGHCヘビー級選手権。
挑戦者の秋山の応援に、永田が駆けつけたのです。
これだけでも話題となりましたが、永田の熱視線に応えるべく 秋山はノアの象徴・三沢光晴からリストクラッチエクスプロイダーでフォールを奪い 遂に自信初となるシングル王座のGHCヘビー級を奪取
当時はまだIWGPに手の届いていなかった永田が、これを目の当たりにして刺激を受けない筈がありません。
同時にあの三沢にトドメを刺した リストクラッチエクスプロイダーの破壊力にも永田は目を付けました。
この頃は、パクり魔だの青魔道士だの散々な言われようだった永田ですが、例に漏れずリストクラッチエクスプロイダーをしっかり自分のレパートリーに加えちゃってます(笑)
ただ残念な事に、本家秋山は正しく一撃必殺として使用していたのに対して、同じ技でも永田のには、そこまでの勝率はありませんでした。
もちろん永田のは全くフィニッシュにならない訳でもなく 何度かはこれで勝利した事もあるし、後のIWGP防衛戦の大舞台でもちゃんとフィニッシュになった事もあります。
しかし2001年のG1決勝戦で、武藤敬司にリストクラッチエクスプロイダーを放った際に、これを受けた武藤はすぐに起き上がってきてシャイニングウィザードで反撃。
本家秋山のなら こんな事にはならなかったでしょうに、これはイメージが悪すぎました。
例え同じ技でも ここら辺で本家との明確な破壊力の差が、浮き彫りになってしまいましたね。
リストクラッチエクスプロイダーという技も好きな技だし、永田裕志も好きな選手だけに、当時からこの技は、もっと大事に使って欲しかった…とは心底思っていました。
ただ両者の直接対決の通算は、秋山が2勝1敗で勝ち越しているのですが、そのうち永田が挙げている1勝は、本家秋山に対してのリストクラッチエクスプロイダーでフォール…だったという事には、永田の意地を感じる事が出来ました。
まぁ結局 その数年後にはリストクラッチエクスプロイダーから派生させた上位互換的なエクスプロイダー・オブ・ジャスティスを開発した事で、永田のリストクラッチ式は、影が薄くなってしまうんですけどね。