いまや日本マット界でも 一番の老舗団体となった新日本プロレスが生まれたのはもう50年以上も前になります。
一般の会社でも50年も続くのは、なかなかの物ですが新日本プロレスと言うのは、非常に運が強いと言うか しぶとい会社だと思います。
そもそもの始まりが、アントニオ猪木が1971年に所属していた日本プロレスで、クーデターを画策していたとして 永久追放された事が新日本プロレス設立に至る 事の発端なので、ある意味何とも新日本プロレスらしいですね。
1972年3月6日 新日本は大田区体育館で旗揚げ戦を開催します。
これは旗揚げ記念日として この日にこの会場で、興業を打つので現在のファンでも馴染みのある日付と会場だと思います。
今では日本プロレス界の最大手で、世界でも5本の指に入るプロレス団体に成長した新日本プロレスですが、旗揚げ当時は所属選手も少なく 猪木の他は、魁勝司、山本小鉄、柴田勝久、木戸修、藤波辰巳と言った陣容でした。
この時は、そんな言葉は有りませんでしたが、今の言葉で言う所のインディー団体です。
旗揚げ時は、テレビ中継もまだ無かった為に、放映権料などのまとまった収入も無い中で、よく団体経営して来れたと思います。
経営もいい加減だったのに・・・
それも猪木を始めとする選手が、ひたすらひたむきにプロレスに取り組んでいたからでしょうか。 勿論 現代と比べて娯楽の少ない時代だったと言うのも大きいかも知れませんが、猪木の持つカリスマ性はこの頃から人を引き付ける物があったんでしょうね。
藤波は、当時キャリア1年にも満たない若手ながらもルックスに優れていたので、将来性もあり華もある選手を抱えていたのは、団体として大きかったと思います。
鬼軍曹となり新日本道場で、数多くの若手を育て上げた山本小鉄の存在も忘れてはなりません。
こうして見ると 旗揚げ時のメンバーは、僅かな人数で人材不足に見えるかもしれませんが、絶対的なエースや将来有望な若手 裏方の鬼コーチ等 実は人材豊富だったのかも知れません。
旗揚げ戦に関しては、選手兼ブッカーとして新日本に協力してくれたカール・ゴッチと猪木のシングルマッチが、メインで行われます。
卍固めをリバーススープレックスで返して そのままフォールと言う 現代では余り考えられないフィニッシュですが、旗揚げ戦でいきなり エースの猪木が敗れてしまう波乱の結末を迎えてしまいます。
まぁ これも新日本らしいですね。
平成になってからは、旗揚げ戦でエースが敗れると言うのは珍しくない展開ですが、この当時は団体旗揚げ自体がまだ珍しい時代なので、旗揚げ戦での猪木敗戦は当時衝撃だったかと思います。
いくらゴッチが猪木の師匠とは言え 当時のゴッチは既に50歳近くなのに対して猪木はまだ20代で体力的には、バリバリ全盛期の時代でしたからね。
でも こう言う波乱で溢れているのが、新日本と言う感じがします。
この時点では、後に多くのスターが生まれ 日本では業界の盟主と呼ばれるようになり 世界でも有数のプロレス団体にまで登りつめるとは、誰も思って無かったでしょうね。
1972年3月6日は、伝説の始まり
新日本プロレスが、旗揚げをした日でした。