「99.1.4事変」ストロングスタイルが死んだ日

1999年1月4日は、俗に言う「99.1.4事変」と呼ばれ新日本史上に残る大事件が起こった日で、ストロングスタイルが死んだ日とも言われています。

 

かつてアントニオ猪木が率いていた新日本プロレスは「キングオブスポーツ」を掲げ全てのスポーツ・格闘技の頂点に立つのがプロレスであるのを証明する為に、他格闘技の競技者をリングに上げ、これまで幾度無く異種格闘技戦を行い 日本の格闘技界を牽引してきました。

しかし やがて猪木も政治家となり、第一線から徐々に退いていく中で、数居る猪木の弟子の中で、最も”闘魂”を受け継ぎ リング上で強さを証明して来たのは、橋本真也でした。

 

猪木の後継者である闘魂三銃士の中でも華や上手さが光るのは、武藤敬司や蝶野正洋ですが、単純な”強さ”という視点で見た場合は、やはり橋本が抜きん出ています。 実際に橋本は何度も異種格闘技戦を経験して来ており、1997年に柔道からプロレスに転向して来た小川直也の相手を務めたのも橋本でした。

初戦でこそ小川に不覚を取る物の 強烈な蹴りや手刀で小川をボコボコにしており、リターンマッチでは油断を捨てた橋本が、非情な顔面蹴りで小川を完全KOしています。

 

その後に王者から転落した橋本は、一旦IWGP戦線から離れ、異種格闘技路線を進むようになります。

新日本のメインストーリーから離れたとはいえ、橋本は紛れも無く 新日本の強さの象徴であり、新日本が長年掲げて来たストロングスタイルの象徴でした。

 

しかし運命の1999年の1月4日・東京ドーム

新日本にとって運命の一日が訪れる事になります。

 

ドーム大会の目玉として、新日本は猪木率いるUFOとの対抗戦を開始し、当時UFO所属だった小川直也の相手を務めるのは、小川とは最も因縁の深い橋本。

武藤敬司はメインでIWGP王座戦を闘う事が既に決定していたし、この時点では格闘技色の強い小川を相手にするには、橋本がも誰よりも適任だったのは言うまでも有りません。

 

しかし対戦カードこそ決まった物の 新日本サイドと小川の連絡が一切付かなくなり、試合直前まで連絡を断つという小川の行動に、橋本は明らかな異変を感じ取っていた様です。

入場時から全身にオイルをに塗って現れると言う これまでの異種格闘技戦でも見られなかった橋本の警戒ぶりは、試合開始前から只成らぬ雰囲気を醸し出していました。

 

橋本の入場を遮る様に、小川がマイクを持ち「橋本!死ぬ気が有るなら上がって来い!」

東京ドームの花道を歩く入場シーンは、レスラーにとっては大きな見せ場のひとつ。

これを邪魔するのはある種のタブーだというのに、それを犯すという事は、既に只事ならぬ事態と言えるでしょう。

 

緊張感の漂う中 試合開始のゴングが鳴ると、またもやプロレスのタブーである鼻っ柱へのストレート。

この一撃で鼻骨を折られた橋本は、小川が”プロレス”をする気が無い事を悟り、レフリーに組ついたり蹴りを入れたり何とか試合を終わらせようとします。

しかし何故か試合は止まらず、顔面へのサッカーボールキックやうつ伏せの後頭部を踏みつける等、明らかにプロレスの範疇を越えた攻撃で、この日の小川は明らかに橋本を潰しにかかっていました。

 

橋本は反撃をする様子もなく戦意喪失? もしかしたらプロレスにならない以上は、やり返さないと決めていたのかも知れませんが、一方的にボコボコにされる強さの象徴。

 

結局 無効試合となり、両軍入り乱れての大乱闘で、数人が病院送りに。

そして小川の「新日本プロレスファンの皆さん!目を覚ましてください!」と余りに痛烈な一言。

新日本の選手に対してもファンに対しても衝撃でした。

 

公式の結果こそ無効試合ですが、橋本の真意はいかにせよ、一般的な見方としては、強さで売っていた橋本真也が手も足も出ずの大惨敗。

他団体の選手からもやり返さなかった橋本に対して苦言が飛び出す始末。

残念ながら、この瞬間に破壊王の価値は、著しく落ちてしまいました。

 

この日 ストロングスタイルは死にました。

 

後日談で明らかになった事ですが、この試合を歴史的な一戦にする為にアントニオ猪木が、小川にたいして「徹底的にやれ!」と指令を出した事が、全ての発端で、それを小川があの形で実行したとの事。

猪木はプロレス的かガチか・・・どのレベルで「徹底的に」と言ったのかは分かりませんが、この事件後にさっさと姿を眩ませたのだから。まるで話になりません。

 

結果的にこの事件が転機となって新日本は徐々に落ちていき、暗黒期になっていくのですが、ストロングスタイルを掲げていた新日本にとっては、とんでもない大事件。

この事件が残したのは、小川直也に最強の幻想を抱かせた事。

新日本と破壊王のブランド低下。

橋本の新日本退団

そして「プロレスラーは強くない」というイメージを植え付けてしまった事も その後のプロレス界の人気下降の要因の一つでした。

 

やはり東京ドーム史上、新日本プロレス史上に残る大事件。 もしこれが無ければ現在のプロレス界は、どんな道を歩いていたのか?

「たられば」はナンセンスですが、そこはやはり気になりますね。

 

1999年1月4日は「99.1.4事変」

ストロングスタイルが死んだ日とも言われた日でした。