1990年3月15日は、世界の荒鷲こと坂口征二が、引退した日です。
坂口といえばアントニオ猪木に次ぐNo.2
しかしカリスマ性では劣る物の プロレスラーとしての実力は、猪木にも全く引けを取らない 時代や団体が違えば、紛れもなくトップになっていた昭和の名レスラーです。
それでも敢えて 猪木を支える事に尽力したのは、誰からも好かれ信頼もされる その穏和な性格と奥ゆかしい人間性の現れでしょう。
永遠のNo.2と言われながらも
最強のNo.2と言われた男。
猪木の後を引き継ぎ、1989年に新日本の社長に就任した坂口は、その翌年1990年2月の社運を懸けた東京ドーム大会で、いきなりの危機に直面します。
目玉カードとして発表していたリック・フレアーvsグレート·ムタの一戦が、直前になって諸事情により急遽 白紙に戻ってしまったのです。
困った坂口社長は、全日本プロレスのジャイアント馬場に相談をすると「お前の社長就任祝いだ」と…何と当時としては、異例とも言えるジャンボ鶴田や天龍源一郎を含む 全日本プロレスの選手参戦を実現させ、大きな話題となり大会を大成功に導いています。
馬場の英断も大きかったですが、これも坂口の人柄と信用があってこその結果でしょうね。
このドーム大会のメインで、若い橋本真也や蝶野正洋を相手に闘い抜いた事で、選手としても一区切りをつけたのか、社長と選手の二足の草鞋を履く事を良しとせず、3月15日に、現役引退を発表します。
これは坂口らしく男らしい決断だったと思います。
両立が悪い事とは言いませんが、どちらかが中途半端になる位なら リングは身をもって成長を体感した橋本や蝶野に任せ、自分は会社を経営する事に、専念しようと言う事です。
その後の闘魂三銃士の台頭や 新日本の躍進をみていれば、この時の坂口の決断は間違っていなかったと思います。
全てのケースでこれが良い訳ではありませんが、少なくとも この時の坂口の場合は結果的に、良い方向に作用したんじゃないでしょうか?
そして迎えた3月15日
坂口の地元である 久留米県立体育館にて行われた坂口征二の引退試合は
坂口&木村健悟vsスコット・ホール、マイク・カーシュナー
最後の試合にしては、少々地味なカード。
これも控えめな坂口のらしいですが、スーパースターになる前のスコット·ホールが名を連ねてるのも凄い話です。
引退試合ともなると普通は、本人が有終の美を飾るか、時代を担う若い選手に敗れて未来を託して終わるか……じゃなければ時間切れ引き分けか……
このパターンが引退試合のお決まりだったんですが、最後は木村がフォール勝ちで試合終了。
坂口の引退試合なのに、勝敗に坂口は全く絡まないと言う なかなか珍しい結果に終わりましたが、これも敢えて2番手に徹してきた坂口らしいかも知れませんね。
最後の最後まで、坂口は坂口らしくプロレスラーとしての自分に与えられた役割を全うして リングを去っていきました。
もう少し 野心を持った坂口も見てみたかった気もしますが、坂口は己の美学を貫き通したので、これで良かったのでしょう。
23日にセレモニーとエキシビションマッチを行ってはいますが、正式な引退試合としては、この日が公式になります。
その後の坂口は、社長として手腕をふるい米国メジャーのWCWとの業務提携、東京ドーム大会連発、G1クライマックスの一大ブランド化など……新日本プロレスを世界有数のメジャー団体にまで成長させていったのは、周知の通りです。
1990年3月15日は、世界の荒鷲こと坂口征二が現役引退した日でした。