稔「新日Jr.について来い!!」

G1やスーパーJr.に代表される定期的に開催されるリーグ戦は、出場選手もトップどころから中堅選手まで多数なので、何回出場をしても優勝には手が届かない選手も当然出て来ます。

実力的にはいつ優勝してもおかしくない様な、王者クラスの選手とて例外では無く、タイトルマッチでは勝てるのに、リーグ戦になると星が伸び悩むのは良くある事です。

今では、3大メジャーJr.王座を制覇している田中稔でも かつてはスーパーJr.を優勝する事が出来ずに、苦しんでいた時期が有りました。

 

1999年に格闘探偵団バトラーツ所属として、新日本プロレスに初参戦をして評価された事で、同年のスーパーJr.初出場。

2000年には、IWGPタッグ獲得 その勢いでIWGPJr.ヘビー級も獲得・・・ここまでは順調に実績を積み重ねてきて、気が付けば田中稔は新日Jr.を代表する選手の一人にまで登りつめていました。

 

2001年には正式に新日本に入団を果たすも、スーパーJr.決勝戦で獣神サンダー・ライガーに敗れ惜しくも準優勝

2002年にも再びスーパーJr.決勝戦まで進みながら、金本浩二に敗れまたもや準優勝

その後もHEATに変身したり、リングネームを稔に改名したり、CTUに加入したり 未だに破られていないIWGPJr.ヘビー級連続最多防衛記録を樹立したりと、新日本Jr.史に残る輝かしい実績を残しています・・・しかし・・・それでも2005年時点で稔は、未だにスーパーJr.優勝経験なし。

 

稔ほどの実績と格を持ちながら、スーパーJr.にだけは手が届かないのは何とも不思議でしたが、本人からすれば自分自身が歯がゆくてしょうがなかったでしょう。

新日Jr.の象徴であるライガーや金本に代わり、新日Jr.を引っ張って行く覚悟で身を削りながら毎日 激しい戦いをしているのに、どんなに足掻いても優勝出来ず、最高で準優勝止まり

この当時の稔の悔しさは、計り知れなかったでしょう。

 

そうして迎えた2006年のスーパーJr.

稔は7度目のチャレンジとなりますが、この大会の為に編み出した数々の技を駆使して、これまでの悔しさをバネに、3度目となる決勝進出を果たします。

対角線に立つのは、去年一昨年と2連覇をしているタイガーマスク。

ベストバウトに選ばれてもおかしくない凄まじい闘いでしたが、最後は狙い澄ましたミノルスペシャルで、遂に悲願の初優勝を果たしたのです。

 

誰もが認める世界最高峰の新日Jr.のトップの器でありながら、どうしてもどうしても届かなかったスーパーJr.優勝と言う栄冠。

苦しみの末に、ようやく掴んだ栄冠でした。

 

試合後には、正規軍も引退している垣原賢人も、新日Jr.全員をリングサイドに呼び寄せ、会場に詰めかけたお客さんに、こう語りかけました。

 

「どうせ新日本プロレスを観に来たんだったら、ストンピングしまくる様なスゲェ試合が観てぇだろ?」

「熱狂しまくりてぇだろ?」

「感動しまくりてぇだろう?」

「夢見させて欲しいだろ?」

「そんな奴らは、一人残らず・・・」

「新日本Jr.について来い!!」

 

最高にカッコ良かったです。

 

反体制派のCTUと言う立場に居ながら、この時の稔は紛れも無く新日Jr.のエースであり、紛れも無く新日Jr.の顔だったと思います。

インディーからやってきた選手が、日本最大のメジャー団体でJr.ヘビー級の頂点に立ち、これからは改めて自分が新日Jr.を引っ張って行く・・・そんな固い決意が見えた瞬間でした。

 

それだけに色々あったとは言え、2009年に新日本を退団した時は、残念だったんですけどね。