プロレスはリング上で、二人の選手が雌雄を決するので当然ながら、勝利と敗北の2つの結末が待ち構えています。
その結末次第で、闘った選手の今後のレスラー人生を大きく左右する事も多々あります。
その一人が、垣原賢人
1990年にUWFでデビューした垣原は、デビュー間もなくしてUWFの分裂により、高田延彦率いるUWFインターナショナルに移籍。
新天地で技術を磨き、着実に力を付けていった垣原ですが、団体の象徴であり絶対的なエース高田延彦に加え、不動のNo.2山崎一夫。
そして若手のホープである田村潔司に、外国人まで含めるとベイダーにオブライト等 垣原より上のポジションに立つ越えるべき壁は、団体内に沢山居ました。
そんな中で、1995年に突如勃発した新日本プロレスとの対抗戦。
水と油の関係であった両団体で、イデオロギー闘争とも言うべき全面対抗戦に、若い垣原も駆り出される事になります。
当時の垣原は、中の上のポジション。
対抗戦の火種ともなった山崎の退団。 己の信念を貫き対抗戦不参加を徹底した田村。 所属日本人の対抗戦である為に外国人選手の不参加など……が重なり、気がつけば対抗戦に関して言えば、垣原は団体No.2の位置に居ました。
迎えた10.9東京ドームでの全面対抗戦では、メインは当然 総大将の高田が武藤敬司と激突しますが、垣原はセミファイナルで佐々木健介との一戦。
この頃の健介は、まだIWGPにこそ手が届いていない時期でしたが、バリバリの新日本のトップクラスの一角。
下馬評では圧倒的に健介有利で、直前にオブライトにギブアップ勝ちした実績があるとは言え、当時キャリア5年23歳の垣原には荷が重すぎる相手でした。
いざ試合が始まれば、体重差がある事もあり一方的な展開となりましたが、最後の最後まで諦めなかった垣原が、健介のジャーマンを得意の膝十字固めで切り返すと まさかまさかの大逆転勝利!
この大会一番の番狂わせとなりました。
この勝利により垣原の格は一気にハネ上がるのですが、メインで敗れた高田は靭帯断裂により欠場を強いられ、何と実質的に垣原は対抗戦に置ける団体トップの位置にまで祭り上げられる事になってしまうのです。
これは当時の垣原のプレッシャーは、凄かったでしょうね。
ほんの数ヵ月前までは、下から上を追い上げる立場に居たのに、気がつけばトップとして団体を引っ張って、新日本と言う巨大組織に立ち向かわなければいけなかったのですから。
「勝利と引き換えに僕は重い十字架を背負った」
後年に垣原がインタビューで語った言葉ですが、本当にその通りだったと思います。
頼れるベテランの実力者 安生洋二は違う方向に行っちゃったし、強大な団体を相手に若干23歳の選手が、Uインターを背負って先陣切って闘う事になったのだから対抗戦前と後では、心構えから何からあらゆる面で変わった事でしょうね。
しかし違う見方をすれば、だからこそ垣原の商品価値がグンと上がったのは間違いないし、高山善廣の様に身体が大きい訳でもない垣原が、後に全日本参戦から入団へと繋がったのは、この時の経験があったからかも知れません。
大きなプレッシャーをはね除け、高田が帰ってくるまでUインターを背負い続けた垣原は、確実に一段階成長したと思います。
「たった一度の勝ち」「たった一度の負け」と言葉にするのは簡単ですが、その「たった一度」でスランプに陥る事もあれば、ブレイクする事も確かにあるので、こればかりは本当に分からない物です。
少なくとも この対抗戦に置いては、高田延彦が敗れた現状で、垣原賢人は紛れもなくUインターの光明でした。