馳浩「全日本プロレスの怖さを見た」

90年代の全日本プロレスは、まだ鎖国体制を敷いていた時代だったので、97年から徐々に門戸開放がなされ 他団体のレスラーが全日本に上がるようになった時は、非常にワクワクしたものです。

 

三沢光晴や川田利明らが、他団体の選手と闘ったらどうなるんだろう?・・・と言うのは、当時のプロレスファンなら誰もが思い描いていた物。

門戸開放がされる1年前の1996年に、他団体からの参戦と言う訳ではありませんが、同年1月に新日本プロレスで引退をした馳浩が、11月に全日本で復帰。 よもやの入団を果たしたのです。

 

他所からの参戦ではなく あくまで正式入団と言う形ですが、馳は10カ月前まで新日本の所属選手でありIWGPタッグも巻いた事のあるトップクラスの選手なので、全日本の所属選手になったと言っても「新日本の馳」と言うイメージは、まだまだ強く 馳の全日本での毎日のファイトは、当時は交わる事の無かった 新日本と全日本のレベルを知る上での指標にもなったと思います。 

特に誰もが注目したのが、90年代当時は全く絡みの無かった 四天王との激突でしょう。

 

1997年8月17日

この時点では、馳と四天王とのシングルはまだ実現していない中で組まれた 待望の四天王絡みの試合が三沢光晴、秋山準、浅子覚vs田上明、馳浩、小川良成の6人タッグマッチ。

三沢と馳の対決に注目が集まる中 当然の様に馳は三沢に対して次々に得意技を仕掛けて行きます。

しかし馳の攻撃を全て天才的な受けの技術で、ダメージを最小限に抑える三沢に対して 馳が仕掛けたのは得意の裏投げ! 

 

この裏投げが、これまた凄かった!

今まで見せた事の無い急角度で垂直に脳天から突き刺され これには流石の三沢も大ダメージを受けてしまいます。 対戦相手の技術によって角度を変えると言う馳のこの時の裏投げは、紛れも無く「最高級の裏投げ」で、新日本時代にも見せた事の無い急角度でした。

三沢の受けの強さと技術を肌で感じ取ったからこそ 敢えてあの角度で裏投げをだしたのでしょう。

 

試合は秋山が小川を撃破する形で終えますが、印象に残ったのは馳の攻めと試合後のコメント。

「手応えがあったのは裏投げくらい。三沢選手なら受けきれると思って最高級の角度でやったけど、試合後半にはケロッとしてた。」

と三沢の受けの技術とタフさには舌を巻きながら

 

全日本プロレスの怖さを見た。

 

と全日本の強さも再確認。

新日本と全日本 どちらが強いのか・・・というのは、この時代のプロレスファンの永遠テーマでしたが、攻めよりも受けを重視していた全日本の中でも 特に受け身の技術に特化していた三沢の技術の高さを 皮肉にも馳の厳しい攻めが証明したとも言えます。

 

最高級を出したのは三沢の受けを認めたからであり、最高級を出さなければ勝てないとも認め、しかし最高級を出しても勝てなかった・・・そして試合後の「全日本プロレスの怖さを見た」

新日本と全日本の両方に所属して 両方のトップレスラーと闘ってきた馳だからこそ 見える事実があったのでしょう。

 

攻撃面や人気面ではともかくとして、少なくとも プロレスにおいて大事な要素の”受け”は、三沢光晴が・・・全日本が抜きん出ていたのでしょう。

新日本ファンだった自分も三沢光晴の ”受けの強さ”は認めていたので、馳の言葉に反論もありませんが、馳のこの発言を聞いた当時の新日本のレスラー達が、どう思ったのかは興味のある所ですね。