太陽ケアのハワイアンスマッシャー

2000年にプロレス界のベルリンの壁が崩壊して、新日本プロレスvs全日本プロレスが開戦した時

一人の選手と一つの技が一躍注目を浴びる事となります。

 

その選手の名前は、太陽ケア。

そそいてケアの代名詞とも言える必殺技は、ハワイアンスマッシャーでそこから様々な派生技も誕生させ ケアに取っては切り離せない技ですが、ケアの歴史の中でも最も印象に残ったハワイアンスマッシャーと言えば、やはり2000年9月の新日本プロレスとの対抗戦の時でしょう。

 

団体対抗戦が勃発すると その中で大ブレイクを果たす選手が出て来るのは良く有る事ですが、この時は世界ジュニアヘビー級を返上して ヘビー級転向をしたばかりのケアが正にそうでした。

当時の全日本は、三沢光晴らの大量離脱により 日本人選手は僅か2人と数人の外国人選手のみになり歴史的にも危機的状況の中で、ケアの存在は全日本の希望でした。

 

対抗戦の初戦では、渕正信が蝶野正洋に敗れ 全日本としては「一矢報いねば」と後日組まれた第2戦が、渕&ケアvs蝶野&後藤達俊。

新日本ファンにとっては、まだまだ無名だったケアですが、ハツラツとしたファイトで新日本ファンを驚かせます。

後藤のバックドロップを喰らい大ダメージを負う場面は有った物の 直ぐに反撃に転じて独特な蹴りのラッシュから後藤を両肩に担ぎあげると そこから後藤をホイップして一気にスタナーで叩きつける必殺技ハワイアンスマッシャーで、僅か2分18秒で後藤をフォールして「全日本プロレスはまだ死んで無いぞ!」と力強くアピールしたのでした。

 

この時ばかりは、ケアは正しく全日本の太陽でした。

当時から新日ファンでしたが、こんなにもイキの良い 若い外国人選手が居る全日本が羨ましくもありました。

既に瀕死状態だったと言われていた当時の全日本に、息を吹き返してきたのはこの試合でのケアが・・・・この試合でのハワイアンスマッシャーの存在が大きかったと思います。

それ程に強烈なインパクトを与えた2分18秒でした。

この後に続く東京ドームでの佐々木健介と川田利明の頂上決戦も ここでケアの勝利が無ければ全日本を知らなかったファンからすれば そこまで興味を引く事も無かったかもしれません。

結果的に、翌月に控える頂上決戦に向けての前菜ではあったかも知れませんが、それでもこのケアの勝利は全日本にとって とてつもなく大きな一勝でした。

 

このハワイアンスマッシャーは、ケアが若手時代に本名のマウナケア・モスマンで試合していた時から使用していたオリジナルホールドですが、若手時代の最高の実績である世界ジュニアヘビー級獲得時のフィニッシュになった訳でも無いので、知名度的にはイマイチでした。

やはりハワイアンスマッシャーの存在を広く知らしめたのは、新日本との対抗戦で後藤を沈めた時でしょうね。

 

その後2001年には、空位となっていた世界タッグ王座決定戦で、川田&渕をハワイアンスマッシャーで撃破して 初の世界タック戴冠を果たすなど、当時のケアの最大のフィニッシュホールドでした。

しかし本人の成長と供に、持ち技も進化していき更に強烈なハワイアンスマッシャーの派生技も数多く誕生した事で、徐々にフィニッシュになる事は少なくなっていったのですが、派生技が生まれる事で元の技は価値が落ちて行く事は、プロレレス技の宿命とはいえ、少々残念ではありましたね。