新日本プロレスで、まだ1.4の東京ドームが定着していなかった時代の1991年3月21日に、”スターケードIN闘強導夢”が、開催され その目玉として新日本と業務提携をしたばかりの米国メジャー団体WCWが、大挙来日しました。
スタイナーブラザーズやスティング等 新日本では、まだ一度も参戦した事の無い未知の強豪達が、こぞって来日して大きな衝撃を与えると同時に、大会に花を添えました。
そして大会のメインイベントに、藤波辰爾vsリック・フレアー
両団体のトップ同士の対決と言う事で、それだけでも注目の対決なのですが、それぞれが当時保持していたIWGPヘビー級とWCW世界ヘビー級のダブルタイトルマッチ。
これは良く両団体が、このマッチメイクに同意したな・・・と
確かに、ダブルタイトルにすれば インパクト抜群で、ドーム大会のメインとしては申し分ないのですが、余りにも両者にとっても両団体にとってもリスキー過ぎる闘いです。
下手したら両選手は勿論 負けた方のタイトルの低下、団体のブランド低下にまで繋がりかねませんからね。
これは、もうこのマッチメイクをした会社とリングに立った2人に、称賛を贈りたいです。
この世紀の一戦を見るべく東京ドームには、64500人の観客が駆けつけ あの世界のリック・フレアーをして「こんな多くの観客の前で試合をするのは初めて」と言わしめた程の大観衆。
試合に関しては、近年のプロレスの様な派手な闘いでは有りませんでしたが、フレアーの世界と藤波の技術が、融合した素晴らしい試合だったと思います。
鮮血に染まるフレアーの金髪
フレアーのデットリードライブ受け
フレアーのショルダースルー受け
フレアーの前のめりダウン
コーナー振られた際の前方回転宙吊り
許してくれアピール等など フレアーの世界観がたっぷり詰まった試合でした。
何度も藤波の丸め込みで、3カウントを取れているのにレフリーがダウン中で、フォールが数えられないと言う 最近の新日本でも良くある展開ですが、これはプロレスの歴史上よくある事ですね。
レフリーは最後まで復帰出来ませんでしたが、藤波の丸め込みでも上位に位置するグランドコブラツイストが、ガッチリ決まり 飛び込んできたサブレフリーが遂にカウントを3つ叩きました!!
ジャイアント馬場に次ぐ 日本人2人目のNWA世界王者が誕生した瞬間でした!!
この時のドームの沸き様は凄かったですね。
それもその筈「NWAを日本人が巻く」事自体が偉業なのですが、NWAはどちらかと言えば 新日本よりも全日本や馬場と繋がりのあった王座
それを新日本の・・・猪木の愛弟子が巻いたのですから感慨深い物もあったでしょう。
しかし数日後には、WCWからクレームが入り藤波の王座奪取は認められないと言うのです。
レフリーがダウンしている間に、藤波がショルダースルーで、フレアーを場外に投げ捨ててしまった為に「NWAルールに基づき藤波の反則負けだから 王座奪取は無効だ!」と言うのがWCWサイドの言い分です。
確かにルール上では、そうだけど「プロレスはレフリーが居ない間なんて反則やりたい放題じゃないか!」誰もがそう思った筈
しかもレフリーがダウンしたのは、フレアーが激突した為だし・・・
カウントを取ったのはサブレフリーだけど それもメインレフリーが不在だったんだから何の問題も無い筈。
看板王座を取られたくないWCWの難癖とも取れるクレームにより 強制的に藤波は王座剥奪となってしまい 数日後にフレアーと王座決定戦と言う形で、再戦となりましたが、そちらではリベンジを許してしまい 結局藤波のNWA世界王座は幻となってしまいました。
これには日本のファンは、激しくガッカリたでしょう。
その後 徐々にNWA王座は衰退していき かつての価値は無くなってしまうのですが、現在では管理団体などが変わった事もあり いつの間にか歴代王者に藤波辰爾の名前が、しっかり刻まれていました。
なんだかなぁ
ほんと今更ですよね・・・
1991年3月21日は、藤波辰爾のNWA世界王座奪取が、幻となった日でした
(現在では幻ではなくなりましたが)