三沢光晴は、オリジナル技の多いイメージだと思います。
それはタイガーマスク時代から変わっていません。
タイガーマスクの代名詞のタイガースープレックスですら 初代とはクラッチを変えて”タイガースープレックス84”とする辺りに、他人とは同じ事をしたくないと言う拘りを強く感じられます。
それはタイガーマスク時代の当初から 毎年一個ずつ新しい技を出すと公言していた程。
そこまで順調に来ていた2代目タイガーが、最初の挫折を味わった1985年。
初代のライバルだった小林邦明に、三沢タイガーは不覚を取ってしまい長期欠場となってしまいます。
その時の悔しさをバネに、怪我をしっかり癒し 欠場期間に公約通りのタイガースープレックス85を開発。
敗戦から2カ月後のリターンマッチで、初公開となるタイガースープレックス85を繰り出し、見事にリベンジに成功。
この”85”が相手の背後から 左手はハーフネルソン 右手は胸に手を回してのクラッチと左右非対称のクラッチで、変形のタイガースープレックスとも言えない形でしたが、初代の宿敵に敗れ 欠場からの新技でのリベンジと言う このシチュエーションだけでも燃える物があります。
安定感では、通常のタイガースープレックスの方があるし、ぶっちゃけ85は、好きな技でも無いんですが 開発から公開に至ったシチュエーションだけでもお腹一杯な訳であります。
マスクを脱いで三沢光晴に戻ってからは、暫くは封印状態でしたが、1994年の小橋建太との一戦で、三沢光晴としてタイガースープレックス85を初めて解禁してフォールを奪った時は、さすがに驚きましたね。
三沢光晴としては「大一番でのみ繰り出す技」だったのも印象を強くした理由の一つです。
個人的に好きな技でなくとも その技を出した時の状況や背景で、印象深くなったり思い出に残る技になったりする訳ですね。
しかしタイガースープレックス85は、大一番でのみ繰り出す技だったのに、残念ながら この小橋戦以降はフィニッシュになる事が無かったのが、少し残念でした。