1980年代後半に、全米を震撼させたグレートムタが、海外修行を終えて日本に帰国したのが1990年。
日本でやるに当たってムタを捨て 武藤敬司としてファイトすることを決めた武藤は、凱旋帰国試合で華麗なファイトを展開し あっという間にファンの心を掴む事に成功します。
身体能力・ルックス・テクニックと全てを兼ね備えた武藤が、人気ナンバーワンになるには、そう時間はかかりませんでした。
しかしファンも欲張りな物で、かつて全米を震撼させたムタを日本でも観てみたいと言う欲が出てきて 会社にもその要望が多くなってきたと言います。
こうしてファンの期待に応える形で、三試合限定でムタが復活する事になりました。
越中詩郞がサムライ・シローとして ムタの国内デビュー戦の相手を努めましたが、多くの人は海外逆輸入のグレート・ムタを見に来た筈です。
しかし この頃は「武藤がこう」で「ムタはこう」とまだ固まってない時期だったので、ペイントをした武藤が試合をしているだけの普通の試合でした。
当時は二重人格を使い分けると言う概念も前例も無かったので、しょうがないし 海外では武藤敬司というレスラーは存在しないので、海外では普通の試合をすればそれで良かったのですが、武藤敬司が存在する日本では、そうはいきません。
勝つには勝った物の あまり評価は乏しくなく 後の人気が嘘なくらいの平凡なデビュー戦となってしまいました。
第二戦の馳浩戦は、前回とは打って変わって ヒールに徹したムタが反則殺法全開で馳を血ダルマにした上で、カウンターの毒霧を浴びせ反則負け。
更には担架に馳せを乗せて ムーンサルトプレスを見舞うと言うおまけつき。
結果だけ見ればムタの反則負けなのですが、ムタワールド全開のムタらしさが存分に発揮された 名誉の反則負けと言える試合だったと思います。
この試合をムタのベストバウトに挙げる人も未だ多く 今後のムタの方向性を決定づけた一戦だったでしょう。
そして第三戦目のリッキー・スティームボード戦
天井から降りて来る ドハデな演出での入場で、会場の度肝を抜いたまでは良かったのですが、試合そのものは、またもや凡戦。
アメリカ時代にも対戦した事のあるスティームボードだけに、好勝負が予想されましたが、そう簡単には事は進みませんでした。
自身のファイトスタイルに、まだまだ手探り状態のムタは、極悪殺法に徹する事が出来ずに、盛り上がりも無いまま最後はムーンサルトプレスで一応の勝利を収めます。
会場はさして盛り上がらず、ムタとしてのファイトに手応えを掴め無かった事で、試合後にムタの口から出た言葉は
「ムタは終わり」
もう国内では、ムタではやらない。
日本では、ムタと言うキャラクターはウけない
この時点では、武藤はムタと言うキャラクターに、少なくとも日本国内では見切りを付けていたようです。
しかし会社としては、武藤とは別の意味で見栄えも良く話題にもなるムタを放っておく訳にはいかず その後もムタとしての試合をビックマッチで組んで行きます。
その甲斐もあってか 翌年のスティング戦こそイマイチだった物の
ムタ・TNT vs 馳・健介
ムタvs藤波
ムタvsマシン
1991年に組まれた この辺の試合で吹っ切れたのか、極悪殺法を駆使してムタワールドに開眼した様に思います。
この時期は、ビックマッチと言えば「ムタ」と言う位に、頻繁に登場するようになり存在感で武藤を上回るまでの大きな存在になっていったのです。
あの時「ムタは終わり」とまで言ったのに、まさか30年経った今でもムタが続いているとは思いもしませんでした。
1992年に、ムタでIWGP初戴冠した際にも「ムタはもうやらない。武藤で防衛戦をやっていく」と言っていたのに、結局防衛戦は、全てムタだったし 相変わらずビッグマッチでも ムタが登場してました。
「ムタは終わり」とか言う類の言葉は、信用ならないな・・・・と思ったもんです(笑)。