プロレスファンならば誰もが一度は、プロレスラーになりたいと思った事はあるでしょう。
しかし実際に、行動を起こす人間は、ほんの一握りだと思います。
行動を起こしたとしても実際にプロレスラーになれるかは別問題で、身長が規定に達していなかった等・・・現代より条件の厳しかった昭和や平成初期なら尚更で、書類選考の時点で弾かれたりする場合が殆どで、そこで夢を諦めてしまうパターンが、少なくありませんでした。
そんな厳しい時代に、決して身体に恵まれていないにも関わらず 行動を起こす事で、プロレスラーになれた代表格は獣神サンダー・ライガー
そしてウルティモ・ドラゴンでしょう。
ドラゴンは少年時代に、アントニオ猪木や初代タイガーに憧れ、新日本の門を叩きますが、当時の規定は178㎝でドラゴンは170㎝しか無かった為に、一度は不合格となるもその熱意が認められ、新日道場に出入りして練習する事を許されます。
合格した訳ではないので、練習生という立場でもないのに、道場の出入りを許可される・・これだけでも凄い事です。
その後ドラゴンは単身メキシコに渡り、晴れてプロレスラーとしてデビューを迎えれる事になったのですが、これは正にドラゴンの努力と熱意が実を結んだと言う事。
ここまででも夢を叶えたドラゴンは、充分に凄いと思いますが、ここからは徐々に運命の糸に引き寄せられるかの様に、ドラゴンとあのリングの距離が近づいて行く事になります。
日本で新たに旗揚げされたユニバーサルプロレス連盟に、エース格として日本に逆輸入を果たした事で、故郷の地でプロレスラーとして活動出来るようになった訳ですが、団体の崩壊や提携などでSWSやWARを渡り歩く事になったドラゴンを、またもや運命の糸が引き寄せます。
1992年に当時のドラゴンが所属していたWARが、何と新日本プロレスとの対抗戦に発展してJr.ヘビー級のトップだったドラゴンも対抗戦に駆り出される事になります。
かつて入門を希望した 国内最大手の新日本プロレス。
かつて ドラゴンは、新日本でプロレスラーになる事すらも敵いませんでしたが、まさかWAR所属の外敵という形で、念願の新日本リングに立つ事になったのです。
しかし この時のドラゴンには、そんな感傷に浸ってる暇もありません。
なんせドラゴンに用意された舞台は、エル・サムライが保持していたIWGPJr.ヘビー級王座への最高峰への挑戦。
これまでメキシコや国内の他団体で活躍してきた実績を認められての挑戦ではありますが、ドラゴンからすれば入門すらも敵わず 一生手の届かない場所だと思っていた新日本のリングに・・・しかもタイトルマッチの舞台に立つ事になったのですから、この時のプレッシャーは、とてつもなかったでしょうね。
しかしドラゴンは、プレッシャーに打ち勝ち 試合にも勝ち、なんと初挑戦にしてIWGPJr.ヘビー級を奪取してしまったのです。
史上初となるIWGPJr.ヘビー級王座の他団体流出となった訳ですが、それを達成したのが、新日本プロレスに入団出来なかったウルティモ・ドラゴンと言うのが皮肉めいてもいますが、プロレスならではの壮大なドラマの様でもあります。
「夢を捨てずに頑張ればこうしてベルトは巻けるんです」
試合後に、ドラゴンが語ったこの言葉に勇気を貰った人は多いでしょう。
実際にドラゴンは、例え身体が小さくてもレスラーになる夢を決して諦めず新日本のリングに立つ夢を叶え、そしてチャンピオンになったのですから、これ程 説得力のある言葉はありません。
この言葉はプロレスだけに限った話ではありませんが、もしかしたら、この時のドラゴンの言葉を聞いて プロレスラーを目指した人が居るかも知れません。
偉大な先人としてドラゴンが道標を作った事で、今のプロレス界に例え身体は小さくても将来有望な若手選手が育っているかも知れないと考えると、ドラゴンがプロレス界に残した影響は、とてつもなく大きいと言えるでしょう。