IWGPJr.タッグ王座が生まれた日

1998年8月8日は、IWGPJr.タッグ王座が生まれた日です。

 

新日本プロレスのJr.ヘビー級と言えば、かつては藤波辰巳

その後には、初代タイガーマスクが、爆発的な人気を誇り Jr.ヘビー級という階級を牽引して来ました。

そこまでのワントップ体制ともいえる状態から、1980年代後半には、越中詩郎、馳浩、小林邦明、高田延彦、オーエン・ハートらの台頭により、トップ選手がズラリと顔を並べるようになり 象徴のIWGPJr.ヘビー級王座は、特定の選手だけでは無く いつ誰が巻いてもおかしく無い状態にまで、トップ選手の実力が均衡している時代になります。

 

そこから獣神サンダー・ライガーの出現により、新日本Jr.は新たな時代を迎える事になり、佐野直樹や保永紀夫、ワイルド・ペガサス、ブラックタイガー、ディーン・マレンコらの数々のライバル達との闘いで、新日本Jr.は世界最高峰のブランドへの基礎をここで作り上げます。

 

その形が完成したのが、1990年代後半でしょうか

ライガーを筆頭に

エル・サムライ

金本浩二

大谷晋二郎

高岩竜一

ケンドー・カシン

ほぼ同等の実力を持った この個性豊かな6人の日本人選手らの連日の激し過ぎる闘いは、いつしか「新日本Jr.は世界最高峰」とのブランドを手にして 国内外問わず新日本へ闘いの場を求めるJr.ヘビー級の選手が、後を絶たない状態でした。

 

事実この90年代後半は、Jr.ヘビー級ブームも巻き起こり 新日本を中心として様々なJr.ヘビー級のイベントも行なわれました。

その中で、大ブレイクをするインディーの選手も多く それをきっかけにスーパーJr.に他団体枠として出場して、更に評価を高めると言う流れが数多く有った程で、それ程までに当時の新日Jr.の影響力と言う物は凄まじい物がありました。

新日Jr.で活躍する事は、大ブレイクへのきっかけとなる事、それこそが新日Jr.が一大ブランドで有る事の証明だったと思います。 

 

その新日Jr.で最強を決めるのは、スーパーJr.とIWGPJr.ヘビー級王座を巡る闘いが主流でしたが、この頃には既に他団体の選手や 強豪外国人なども多く 人数的にはかなり多く王座挑戦も順番待ちの状態でした。

 

そして これだけ人数が居るのに、ヘビー級には有ってJr.ヘビー級には存在しないタイトル。

そう Jr.ヘビー級のタッグタイトルの設立が、多くのファンに待ち望まれていました。

 

新日本はシングルマッチが主流な所は確かに有りましたが、Jr.ヘビー級では黄金カードと呼ばれる ライガー&サムラ&カシン vs 金本&大谷&高岩の6人タッグマッチは、連日の様に行われ やる度にクオリティは上がっていき「世界最高峰」を象徴する名物カードの一つでした。

そんな6人タッグマッチの成功例と 数々のJr.のイベントの成功例があったからこそ、新日本もタッグタイトルの設立に、GOサインが出たのでしょうね。

 

1998年8月8日 こうしてIWGPJr.タッグ王座は設立されました。

シングル王座から 12年の時を経てJr.ヘビーにも ようやくタッグが認められたのか・・・と言う気持ちでした。

 

初代王座決定戦は、大阪ドームで行われた大谷&高岩 vs 金本&ワグナーの一戦で、これぞ世界差最高峰の闘い!という激しい闘いの末に、大谷がドラゴンスープレックスでワグナーをピンフォールして 見事に初代王者に輝いています。

初代王者に輝いた大谷は「俺が引退するまでこの王座は誰にも渡さないので、IWGPJr.タッグ王座は初代王者で終わりだ!」とまくしてていましたが、翌年の1.4で、大谷自身が敗れて王座を失ってしまったのは・・・まぁそんな事も有るさ・・・って事で。

ちなみに初代王者の防衛回数は、2回でした。

 

ここから新日本Jr.は、シングル戦線と並行して タッグ戦線も王座を巡り 日々激しい闘いが繰り広げられて行く事になります。

数々の人気チームも生まれました

数々の最強チームも生まれました

そして数々の名勝負が生まれました。

 

1998年8月8日は、IWGPJr.ヘビー級タッグ王座が生まれた日でした。