刺青獣ビガロが逝去した日

2007年1月19日は、プロレスファンに愛された刺青獣クラッシャー・バンバン・ビガロが逝去した日です。

 

ビガロと言えば、プロレスラー養成所のモンスター・ファクトリーを経て1987年に新日本プロレスに参戦して以降 そのプロレスの巧さからあっという間に、新日本の外国人のトップグループの一角になった 俗に言う優良外国人選手。

高頭部にまで施した刺青と その巨体のインパクトから刺青獣と呼ばれたビガロですが、見た目からは想像もできない身体能力で、試合前の側転パフォーマンスを見せたりと愛嬌のある人間性からも 多くのプロレスファンから愛された存在でした。

 

しかし どうしてもビックバン・ベイダーやスコット・ノートンに次ぐポジションからは脱する事が出来ずに、IWGPヘビー級には最後まで手が届きませんでしたが、人気面では彼等に決して引けをとっていなかったと思います。

ベイダーやノートンに実績面では負けていても そのキャラクターから強面でありながら華のある選手だったので、1992年のSGタッグリーグ戦での武藤敬司とのコンビは最高でした。

正式なタッグチームでは有りませんでしたが、今後も観てみたいチームだったんですけどね。

 

しかしビガロにとって不幸だったのは、それなりの格の高さがありながら、そのプロレスの巧さ故、どんな相手でも試合を成立させる事の出来るプロレスラーとしての技量が備わっていた為に、サルマン・ハシミコフ、北尾光司、トニー・ホームらのデビュー戦の相手に抜擢され見事なまでに、噛ませ犬にされる役割にあった事です。

まぁ これを不幸と言うかは微妙な所かも知れませんが、裏を返せば会社からの信頼が絶大だった・・・と言う事ですからね。

 

本人がこの事をプロとして誇りを持って与えられた仕事を完遂したと捉えているか、屈辱と捉えているかは、今となっては分かりませんが、ファンとしてはビガロが便利屋の様に使われているのは、残念ではありました。

でもビガロは、立派なプロのレスラーだったと思います。

 

そんなビガロも1993年にはWWFと契約をして「2年後には必ず新日本に戻ってくる」と言い残して新日本を去ったのですが、何かやむを得ぬ事情があったのかは分かりませんがビガロが新日本のリングに上がる事は、それっきりありませんでした。

ビガロの新日本復活を待っていたので、残念ではありましたが、WARやFMWに出て天龍源一郎や田中将斗との試合を見せてくれたのし、海外では新日本時代に実現しなかったグレート・ムタとの対戦も実現しています。

ビガロには、もう少し来日して欲しかったですが、それでもビガロ好きとしては、充分に楽しませて貰ったと思います。

 

2005年に、バイクでの交通事故での機に現役引退をしてしまい 暫くの間ビガロの姿をメディアで見る事も有りませんでしたが、2007年1月19日に「フロリダの自宅にて薬物の大量摂取による副作用で死去」との報道があった時のショックを今でも覚えています。

 

45歳の若さでの早過ぎる死でした。

 

実績的には、No.1のポジションに着いていた訳でも無く、飛び抜けた実績がある訳でも無く、それでも強面のビジュアルながらも愛嬌あるキャラクターに、体格に似合わぬ身体能力と抜群のプロレスセンス

会社や同業者からの信頼も厚いビガロは、本当に誰からも愛されたレスラーだった事は間違いありません。

 

2007年1月19日 は、刺青獣クラッシャー・バンバン・ビガロが、逝去した日でした。