アントニオ猪木の新日本プロレス
ジャイアント馬場の全日本プロレス
供に1972年に旗揚げして、日本プロレス界にインディー団体が乱立しても 切磋琢磨しながら供に日本のプロレスを高いレベルで牽引して来た両団体。
しかし猪木と馬場のライバル関係からか 現代では想像もつきませんが、両団体には接点は、ほぼ有りませんでした。
例外的に1979年のオールスター戦
1990年の新日ドームに、全日本勢が5名参戦
この両団体が28年間に、リング上で接触を持ったのはこの2回のみで、長い間冷戦状態が続き 外国人の引き抜き戦争が勃発したりと決して関係良好ではありませんでした。
新日本の社長が、猪木から坂口征二に・・・更に全日本も馬場から三沢光晴に交代してからは、多少改善はされましたが、それでもプロレスベルリンの壁と言われた様に、両団体の間には高くて分厚い壁が、確かに存在していました。
そんな冷戦状態が続く中 2000年に全日本の三沢が社長解任! そして大多数の選手と供に全日本を退団し NOAH旗揚げに動きだすと言う大事件が起こってしまいました。
全日本に残された選手は、川田利明と渕正信
スポット参戦限定の馳浩を入れても日本人は、たったの3人と言う以前の全日本では、考えられない陣容になってしまいました。
これまで全日本を支えてきた人気選手が、ごっそり抜けただけでも痛手なのに、テレビ局までもが全日本からNOAHに鞍替えした事で、年間数億の放映権料が無くなった事になり これで全日本が潰れるのは時間の問題・・・そんな噂が囁かれ始めます。
そんな中で、全日本が活路を見出したのは、禁断の新日本との対抗戦
新日本にしても当時は、大仁田厚や小川直也により 磁場を狂わされ始めた時期で、武藤敬司や橋本真也も新日本のリングに立てない状態だったので、お互いの利害が一致した結果だったのかも知れませんが、新日本にしても業界に為にも全日本に助けようと言う考えはあったと思います。
こうして今まで長年そびえたってきたベルリンの壁は崩壊する事になり、お互いの陣容が手薄なのは残念ですが、渕の来場をきっかけに、歴史的開戦となりました。
当時の新日本のエースは、IWGP王者・佐々木健介
全日本は王座こそ空位だった物の陣容的には川田
この2人頂上対決が望まれ 川田も「新日本のトップとやりたい」と発言しますが、これにカチンと来たのが健介。
どうやらハッキリと「佐々木健介とやりたい」と言わなかった事が、気に入らなかった様なのですが、逆に川田に「誰がどう見たって新日本のトップは健介なんだからドンと構えてれば良いんだよ」的な事を言われてしまう始末。
仰るとおりです。
ハッキリと名前を出されなくても健介は、IWGP王者で有り その年のG1覇者なのだから誰がどう見ても健介がトップな筈。
どうも健介は、例えIWGPを獲っても三銃士の格下扱いをされ 長年三銃士の背中を追い続けて来た事で、少し卑屈になっていたのでは無いでしょうか?
武藤や橋本が居ないから繰り上げで、エースになった印象までもが有った事から そんな思いを持ってしまうのもしょうが無い気はしますが、川田の言う通り この年の健介の活躍は素晴らしかったのだから ドンと構えているべきでした。
これでは、自分の名前を出されないからって拗ねている感じになってるので、印象も良くないし、実際に「川田とはやらない」とまで言いだしちゃったんだから、実際に拗ねていたんでしょうね(汗)
この状況に折れたのか、川田がリング上で遂に発言します。
「全日本の川田として新日本の健介を潰す!」
全日本のリングで、これまでマイクパフォーマンスなど殆どやって来なかった川田なので、この時は実に不慣れな感じでしたが(後年のハッスルでの弾けっぷりが信じられない位)今回は、堂々と健介の名前を口に出します。
これに機嫌を直した健介が、対戦を了承
遂に禁断の新日本vs全日本の頂上対決が、実現する事になりました。
「佐々木健介」の名前を出すか出さないか・・・これが歴史的対抗戦が実現するかどうかの分岐点でした。
う~~ん
この時の健介は、ちょっとばっかり器が小さかったと言うか・・・本当に自分がトップと言う自負とプライドが有るのなら 川田に新日本のトップとして胸を貸してやる!位の事は、言えれば良かったんですけどね。